- ろうそくの灯に -

読書教育と本屋 その2

 先月に引き続き、今月以降も読書教育に本屋として関われることはないかを考えてみたいと思う。
 皆さんは、「なぜ、若い時に本を読んだ方がいいのか?」という問いに対する答えを用意することができるだろうか。
 若者の読書離れが叫ばれるようになり、40年が経過した今、本を売ることと同じぐらい、この問いと向き合う必要があるのではないかと感じている。
 生活の中に読書がある人達、いわゆる読書生活者を増やすためには、読書が持つ豊かさと怖さについて、幼い頃から感じてもらう必要があると思っている。それが、僕が学校教育の現場において本屋が読書教育に関わることができる可能性を模索し続けてきた理由だ。そして、それこそが、地域の方に「町に本屋が必要である」と感じてもらうための礎なのだと思っている。
 だからこそ、「なぜ、若い時に本を読んだ方がいいのか?」という問いと向き合い続けてきた。僕は、若者のもっている過去という経験が、短くて浅いからだと考えている。それを補うものとして、読書が大切な役割を担うはずだと。自分とは関係のない他人の過去に付き合う必要があるのか、という疑問に対する答えは、そのまま活字離れの理由と結びついている。   「豊かさ」の裏で、僕たちは未来というものに備える経験値であるはずの自分の過去を、終わってしまった過去として手放してきた。それは他人の過去も同様に。今が良ければという、この間の個人消費社会が産み出した価値こそが、それを物語っていると言えるのかもしれない。
 しかし、僕たちが感じている豊かさは、根のない表面だけの豊さなのかもしれないとも感じている。世界中の未来の急変をリアルタイムで告げる掌の携帯電話の振動。世界中のどこかの人の動向が、明日の僕たちの暮らしを変えてしまうかもしれない恐怖。いざとなっても、誰からも助けてもらえない不安と飢餓感が、脅迫観念のように僕たちを携帯電話の向こう側に向けさせる。
 僕たちは、豊さが必然的に僕らにもたらすはずの落ち着いた安堵の感情や人生を味わうゆとりを、失うまいと必死にしがみつく中で忘れてしまったのではないでしょうか? 豊かさに憧れた僕たちは、豊さへの道を誤ったのかもしれませんね。
 未来というものに備える経験値としての過去を手放した僕たちは、現在の先にある未来を想像し、未来に起こり得る難題の解決策を考える力を持っているだろうか。
 ここに、本を読む意味の一つである、未来に備える経験値としての読書の必要性が見えてくると思っている。
 「なぜ、若い時に本を読んだ方がいいのか?」という問いに対する答えは、一つではなく多ければ多い方がいい。その答えの数だけ、本屋が読書教育に関わる可能性が広がると僕は思っている。