- 湯浅の眼 -

「知と情」

先日、文化通信社の緊急セミナー「出版流通/今そこにある危機と未来」を拝聴した。個人的には論点そのものはすでに既知のものであり、特段に目新しいということはなかったが、それでもなお、このようなセミナーが開催されることが重要といえるのは、出版流通に関する「危機感」が薄いままにあるところだろう。関係者すべてではないが、それは出版社側だけでなく書店側も同様ではないだろうか。
 出版輸送の料金は、極めて単純に言えば、通常宅配便の1/4程度である。それは定期性および一定の物量があったこと、また、コンビニエンスストア登場以前の料金体系のママであるがゆえに、配送先が今ほどは多くはなかったこと、が挙げられよう。セミナーで明らかにされたので公言しても問題ないだろうが、高知などは現在、通常宅配便に近いチャーター便での輸送となってしまっているので、運べば運ぶだけ赤字である。そうでなくとも多くの場合、運ぶだけのメリットが運送会社の経営指標的には見いだせない程度の状況になっている。
 そこで、正味変更とともに、価格の変更を伴ったいわば「配分変更」の要請が大きくなってきている。正味変更を成し遂げるためには価格変更が必要であるが、その価格変更をするのは極めて難しいと言わざるをえない。なぜならば、「情報価値」への貨幣的な支払いがネガティブに働いているからである。言葉遊びに聞こえるかもしれないが、「情報」は「知」の要素であるのだが、「知への対価」が低いということである。他方で「情」への対価は少なくとも相対的には保たれている。よって、「ライブ」に代表されるような「情」、いわゆる「コト消費」への支払いはまだ行われている。出版界的にはコミケであり、様々な「本のフェス」がそれだと言えよう。そのような「場」が設定できる場合には一定の価格を保つことができるが、「知」が日常へ埋没すればするほどに出版物への支払いは減少していく。すなわち、価格変更をするということは、販売数量の減少を考えて置かなければならない―
―経済学の初歩のような話であるが。「知」は日常に埋没しているがゆえに、それが必要と感じられなくなる。よって価格変更は容易ではなく、それをするためには「情」が必要となる。すなわち、「感動」か「炎上」である。この要素を持ってくれば、価格変更は可能となるのだが、それは「知」の財産の切り売りとなっているので、結局は死を迎えることになる。